【2chさらし中】

原作:間人探偵能神寝雨露
連載ものの冒頭です
原作を知っている人も知らない人も同様に普通に読めるようにしたいと思って書きました
原作をご存知でない方には、設定の説明が分かりやすく自然であるか
ご存知の方には、逆に説明が鬱陶しくなっていないか
その他もろもろお気づきの点などを特に聞かせていただきたいと思っています

 

 

【女か虎か】:1

 

 ひとくちに船といっても様々な種類がある。
 代表的なのは自動車輸送船、コンテナ船など、ある特定のものを専門に運ぶ大型船だ。全長200メートル超のものも珍しくない。単純に、同じ種類のものなら固めて運んだほうが輸送に楽なこと、大きな船に一度に積んで済ませたほうが、手続きなどがシンプルに済むことから好まれているのである。
 ――しかし夜のどす黒い海原に浮かぶこの船は、そうした『専門の』船ではなかった。
 雑貨船である。
 ショベルカー、穀物、コイル、電気製品、大型プラント、エトセトラ、エトセトラ。扱う荷物の大きさも種類もばらばら。しかもコンテナなどで分譲することなく一度に運ぶ小型の船だ。近年の輸送合理化の流れには、あまり即していない。
 小柄な船体にまったく似合わぬ、積み下ろしのためのクレーンが無骨な姿を海風にさらしていた。
「やれやれ……」
 畸形のキリンのようなクレーンの足元で息をついたのは、既に五十を過ぎた年の船員である。
 彼は東南アジアの某国の出身。経済活動の半分以上が密輸や売春で支えられた国で育ってきたこの男の顔には、年齢よりはるかに多くの皺が刻まれていた。
 体力勝負、危険と常に隣り合わせの密輸船船員の仕事も、そろそろ厳しくなってきた。ここらで大きくドカンと当てて、足を洗いたいというのが本音だった。そんな折に入ってきたこの仕事は絶好のチャンスだった。
 たったひとつの積荷を東京港まで運び、受け手に渡せばそれだけで5万ドル。
 夢まぼろし、あるいはよくできた詐欺のような話だったが、男はこれに飛びついた。
 何があっても絶対に成功させて、この腐った仕事から足を洗おうと心に誓ったのだ。
 巨大なクレーンのシルエットの影で、男は祖国から持ってきたタバコを吸う。
 海風で少し湿気ているのか、火はなかなか移ってくれなかった。ようやく上がった煙が風に沿って流れていく。
 着港は真夜中になると聞いた。もう四時間ほどはかかるだろうか。
 ――と。

 ざぷり

 煙を吸い込んだ男の耳に、波とは異質な水音が届いた。
 何かが水中から這い上がるような。
「む?」
 タバコを口から離し、眉をひそめて辺りを見回す。
 何もない。誰もいない。
 ようやく危険から足を洗えるという期待が、ありもしないものを男の感覚器にとらえさせたのか。
「気のせいか……」
 また咥える。鼻と口から細く白い煙を吐く。

 ひちゃ

 今度は濡れた薄布を引きずるような音がした。
 男は息を止めて瞬きする。

 ひちゃっ

 音はまた響く。
 さっきよりも、近い。
 同僚の誰かが自分をからかっているのだろうか?
「おい、誰だ? 冗談はやめろ。これを吸い終わったらまた仕事に戻……」
 顔をしかめて年配の船員は、再び周囲に視線を走らせる。
 闇に覆われた夜の空。今夜は新月ではないはずだが、空のはるか上方は雲で覆われてでもいるのだろうか。星すらも見えない。

 ひちゃ
 びちゃっ
 ずるぅ

 またも音――
「おい、いい加減にしろっ!」

 男がもう少し鋭い感覚の持ち主なら、そこで振り向きはしなかったろう。
 自分が今ここですべきことは、全身全霊でそこから逃れることだと、理性ではなく本能で理解することができたはずだ。
 決して後ろを振り返らず夜の海に飛び込み、陸地にたどり着くなりほかの船に拾われるなりするまでひたすら水をかき分け泳いで逃げる。近づいてくるこの存在から数メートルでも広く距離を取る。ただそれだけが彼に残された生き残るすべ。
 だが残念ながら男は凡人だった。
 単なる同僚の悪ふざけと判じ、首を動かして振り返ってしまった。

「ねぇ、替わってよ」

 振り向いた男の感覚器が受容したのは――
 愛らしく微笑む少年の顔と、耳元で響いたずるるっという音。
 そして自分の頚椎の折れる音。




 海から上がってきた少年は、倒れ伏した男の服を脱がせ、手早く自分で身につけた。
 汗くささ煙くささに眉をひそめつつ、袖を通してボタンを留める。
 サイズに合わせてミシリ、と体を変化させた。
 幼かった骨格が成熟した、強固な土台に支えられたものになる。少年の肌が張りを失って急速に老いていく。
 見る間に足元の男そのままの姿になった。
「……ふむ」
 神経系のつながりを確認するため、掌を閉じたり開いたりする。
「あ、あー、あっ、あーっ」
 声帯の模写。酒で潰れた声を再現。
 転がったタバコの箱に気づき拾い上げようとしたとき、船橋のほうから声がかかった。
「おーい、いつまでタバコ吸ってる! 交代の時間だぞ、さっさと戻ってこんかあ!」
 船橋から誰かが呼ぶ声がした。
 呼ばれた男は巨大なクレーンの真下で、既に息絶えて動かなくなっている。
 彼は東南アジアの某国の出身。経済活動の半分以上が密輸や売春で支えられた国で育ってきたこの男の顔には、年齢よりはるかに多くの皺が刻まれていた。
 体力勝負、危険と常に隣り合わせの密輸船船員の仕事も、そろそろ厳しくなってきた。ここらで大きくドカンと当てて、足を洗いたいというのが本音だった。そんな折に入ってきたこの仕事は絶好のチャンスだった。
「ああ……すまなかった。今行くよ」
 男の顔を奪った殺人鬼は、男そのものの声でそう答え、拾ったタバコをポケットにしまうと、船橋のほうへとゆっくりと歩いていった。





 怪盗"X(サイ)"。それがこの殺人鬼の通り名である。
 高尚な美術品に目をつけては盗み出し、標的とともに夜の闇に姿を消す。
 興味深い人間に目を留めては殺害し、粉々にした死体を箱に詰めては被害者遺族や警察に送りつける。
 必要とあれば関係者を皆殺しにし、現場を廃墟のごとく荒らし尽くして去ることも厭わぬその暴力性。それでいて不気味なまでに自分の痕跡だけは残さぬその手口。怪盗の名は、探偵小説における『怪盗』のイメージに酷似したものであると同時に、皮肉なほどに矛盾したものでもあった。
 日本語での呼び名は『怪盗X(サイ)』であるが、海外では彼はこう呼ばれている。
 Monster Robber X.I。
 未知(X)で不可視(Invisible)な怪物の強盗。

「とりあえず潜入には成功したよ。船員一人殺してそいつに化けて入れ替わった」
『了解しました、サイ』
 男――に化けたサイは、課せられた仕事の合間を縫って、陸の上にいる相棒にそう呼びかけた。
 奥歯の横に取り付けてある、骨伝導式の通信機器を使っての会話である。響いてくるのは、淡々と感情のない若い女の声。
『細胞を変異させて他人の姿に化けているわけですが……今回は、変異に伴う体の不調などはありませんか?』
「問題ないよ。このままこいつに化け続けてても平気だと思う。ってかほんと心配性だね、アイ。誰かに化けて俺が体調不良起こしたことなんて、これまでいっぺんもなかったじゃんか」
『念には念をです。サイ、あなたの体調管理も私の仕事の一つですから』
 はたから見れば、口の中を少々モゴモゴしているようにしか見えないはずの光景である。
 しかし船橋で働く同僚の一人は、目ざとくそれを見咎めたらしい。
「何をブツブツ言ってるんだ、お前は」
「主への祈りを唱えていたんだよ。初めのように今もいつも、世々に至るまで、アメン、とね」
 この船の船員は全員カトリック教徒であるという、事前に得ていた情報にもとづき彼は答えた。
「祈るのはいいが当直が終わってからにしろ。気が散る」
「ああ。すまなかったな」
 同僚に見えないよう舌を出しながらサイは謝った。




 サイの犯罪を芸術的と評する者たちがいる。どれほど残虐でパフォーマンス的な犯行を行っても、彼が何ひとつ証拠を残さず、それどころか目撃されたことすらないことから来る賞賛だ。
 だがサイ本人にしてみれば、そんな評価は心の底からどうでもいいものだった。
 理由は二つある。一つは彼の犯行には目的があり、それさえ達成できればほかの一切は彼にとってどうでも良いものであること。
 そしてもう一つは。
「祈ってたフリしてごまかすってのは、演技としては微妙だったかな? アイ」
『結果的にはごまかされてくれたのですから今回は構わないでしょう。次回以降磨きをかければ済むことです』
 同僚をごまかしながら当直を終え、船橋を出たところでサイは呟いた。
 通信機器の向こう側にいる相棒が涼やかな声を返す。
「最近、たまに思うんだけどさ。世間にバレたら俺って絶対ガッカリされるだろうねー」
『何がですか?』
「俺の能力のことさ。だって俺が世界的殺人鬼とか犯罪者のカリスマとか言われてんの、俺の努力の結果じゃないんだもん。俺の細胞にそういう犯行が可能なだけでさ。今回だって見た目は完璧に化けてたから気づかれなかっただけで、能力使わずフツーに変装とかだったら普通に怪しまれてバレてたような気がするよ」
『サイ』
 相棒の声がたしなめるような響きを帯びた。
『"たら"や"れば"のお話は無事に犯行を終えた後にでも、改めてゆっくりと致しましょう。今は今のあなたが為すべきことにご集中を。東京港への着港まであと二時間弱、それまでに例のものを盗み出さなければ』
「……はいはい」
 彼の『芸術的な犯行』は、彼自身の特異な能力によって立っている。
 すなわち、常に突然変異を続ける不可思議な全身の細胞だ。この変異の向きさえ調整すれば、彼は誰にでも『なる』ことができる。証拠を残さない犯行や一切目撃されない行動など造作もない。
 彼の犯行を芸術的と崇めるのは、言ってしまえばウサギの脚の速さを誉めるようなもの、カメの甲羅の硬さを讃えるようなものなのである。
『潜入前にチェックしていただいた船の内部の構造は、まだ覚えていらっしゃいますか?』
「あ、ゴメン、微妙。最近特に忘れっぽいんだよねー」
 サイは壮年男性の白髪混じりの頭をがりがりと掻いた。
「体の細胞と一緒に脳細胞まで変異しまくってるからなあ。どさくさに紛れて記憶がどっかにトンじゃったかな……」
『かしこまりました。ではこの通信を通して私がナビを致します。ただ、電波状態が悪くなるとお助けできなくなりますのでご了承を』
「うん。頼んだよ」
 コクリとサイは頷き、アイの指示に従って歩き出した。
「……じゃあ、例のものは船底の倉庫に格納されてるんだね」
『はい。倉庫内のどこに積み込まれたかまでの具体的な特定はできませんでしたが、特徴のある品ですからこの点は問題ないかと』
「まー、ある意味あれだけ分かりやすいもんもそうそうないよなあ」
 狭い船の中を移動する途中で何度か、今『なっている』男の同僚たちとすれ違った。
 男は生前なかなか人望のあるベテラン船員だったらしい。『これが終われば仕事収めだな』『お疲れさまです』などと、口々に声をかけてくる。そのたびに『ああ、ありがとうよ』『お前さんこそお疲れさん』などと返答して受け流した。
 クレーン操縦室の横を抜け、乗組員食堂の前を通り過ぎ、機関室をすり抜ける。
 まっすぐに船底貨物倉へと向かった。





『虎?』
『はい』
 そもそものきっかけは一週間前。昼食の台湾ラーメンをすすりこむサイに、相棒のアイが言ったことに始まる。
『中国吉林省の奥地で生け捕りにされたアムール虎の雄が、来週頭に日本に密輸されるという情報が入りました。サイが興味を示されるかどうか分かりませんが、ひとまずはお耳に入れておこうかと』
『うーん……』
 このときのサイは少年の姿をしていた。実在する特定の人間ではなく、誰にでもなれるこの殺人鬼が日常生活のため取っている仮の姿だ。
 二次性徴の直前といった年の頃。人種の判別も容易にはつかぬ微妙な髪と肌の色合い。大きな瞳といいくっきりと濃く長いまつげといい、マシュマロを連想させるふにふにと柔らかそうな肌といい、『少年』の上に『美』の一文字を冠すに遜色ない容姿である。だが整った顔立ちを間近でよくよく眺めてみれば、愛らしさの中にどこか虚ろな無個性さが潜んでいることに気づくはずだ。
 その無個性な美少年がずるるるるっ、と麺をすすると、唐辛子の赤みの浮いた汁が辺りに飛び散る。
 すらりとした容姿を飾り気のないツーピースに包んだアイは、慣れた様子で布巾を手にし、はねた汁の跡を拭い取った。
 こちらは清廉そうな面立ちの女だ。顔のつくりは美しいが、地味な服装と髪型と化粧、更に表情のない顔につきまとう人形めいた硬さのため、手放しに『美人』と賞賛するには憚られるものがある。
『虎ねえ……基本俺、人間以外の生き物にはキョーミないんだけど。こないだ犬見ても何も共鳴しなかったし。そもそもケダモノなんか盗んで観察したって、俺に役に立つことなんてほとんど分かんないんだよね』
『はい』
 ずるずるずるり。サイの口の中に吸い込まれていく縮れた麺。
 どんぶりの端に唇をつけて傾け、醤油ベースのスープをずずっとすすった。
 見る間に器の中身はその量を減らしていく。
 次にサイが口を開いたのは、どんぶりをすっかり空にしてしまってからのことだった。
『虎だろうがヒョウだろうがライオンだろうが、俺の目的の役には立たないってのは、あんたもよく分かってるはずだよね? なのにわざわざそういうこと聞くってどういうこと? どっかの国で蚊にでも噛まれて脳炎になった?』
『私は健康です。少なくとも自覚症状はありません。何なら確認のために今一度申し上げましょうか』
 淡々と、アイ。清潔なナプキンで、サイの口元の汚れを丁寧に拭いてやりながら。
『あなたの目的は、脳細胞の変異で記憶を失い忘れてしまった、ご自分の"正体(なかみ)"を探すこと。人を殺して死体を潰し、箱に詰めてその細胞(なかみ)を観察するのも、高尚な美術品を鑑賞して作者の感情(なかみ)と共鳴する部分を見つけ出すのも全てそのため。失われた自分と共鳴する可能性のあるもの以外は、あなたにとって一切が不要かつ無価値なものです』
『なんだ分かってんじゃん偉い偉い。……その理屈でいくと、密輸された虎ってのは"俺にとって不要かつ無価値なもの"に分類されると思うんだけどね。自分の名前も年も性別も覚えてない俺だけど、少なくともネコ科動物じゃなかったろうって程度の確信は一応あるし』
 サイの口元がすっかりきれいになったのを確認して、アイはナプキンを畳んでテーブルの上に置く。
『……確かにサイがそう仰るのも無理はありませんね。申し訳ありません、前置きとしてこちらを先に申し上げるべきでした』
 宝石のような深い色の瞳でサイを見つめ、ゆっくりと、しかし確かな口調でこう報告した。
『虎といっても、ただの虎ではないとのことです。現地の組織に潜入させた協力者の報告では……恐らくはあなた同様、"突然変異種"だと』
 ぴくっと、サイの眉がはね上がった。
『――詳しく聞かせて』


 現存する最大のネコ科動物であるアムール虎の平均全長は、3.3メートルといわれている。
 しかし捕らえられたその虎は4メートル、いや5メートル近い体躯をしていた。
 これだけでも生物学的には充分驚異的な事実。しかもその虎の異質はそれだけではなかった。
『再生能力?』
『はい。10番口径の散弾銃が数十発命中。いずれも瞬く間に傷が再生した、と』
 10番は直径19.5ミリの実包を使用する、現在製造されているなかでは最大の威力を持つ散弾銃だ。細胞変異の特殊能力を応用し、多少の傷は数秒で治癒してしまえるサイでさえ、これで連続で撃ち抜かれれば受けるダメージはそれなりだろう。
『実弾が効かなかったため、麻酔銃を十数発使用してようやく行動不能にしたそうです。捕獲のため駆り出された三十人のハンターのうち、十八人が死亡し五人が重傷を負ったとの報告も受けました。映像もありますが、ご覧になりますか?』
『観る』
 即答するサイ。
 その答えを予想していたかのように、アイは手にしたディスクをパソコンに飲み込ませた。

 鈍い起動音とともに画面が緑色になる。乾いた空気に満ち満ちた、中国奥地の森林を映し出す。
 響いてくる低い唸り声。
 金色と黒の肢体が、緑の背景から浮き上がるように現れた。

『これ?』
『はい』

 画面の中で虎が吼える。金色と黒の弾丸となって跳ぶ。
 宙を舞うその巨大な体躯に、無数の弾丸が浴びせかけられた。
 悲痛な吼え声とともに血が噴き出し――

『アイ、ここスロー』
『かしこまりました』
 サイの求めに合わせて操作するアイ。再生速度が三分の一になる。

 血は激しく辺りに飛び散った。木々の幹を黒く湿らせ、緑の葉や下草を赤く染めた。
 虎が地に伏す。300キロはあろう体が倒れ込むと、カメラの固定された地面がドウッと揺れる。画面がブレる。
 血は溢れ続け、虎の見事な縞を見る間に汚れた色に染め上げていく。
 訛りのある中国語で歓声が上がる。

『………………』
 サイが画面を見る目が険しくなった。眉と眉の間に真剣味という名の深い皺を寄せ、全神経を画面に集中させる。
 アイはといえば、そのサイの様子のほうを注視している。
 ディスプレイの光を浴びて白く輝く彼の顔を。主の要求さえあればいつでも反応できるように。

 虎の体からミシッ、と軋みにも似た音が響いた。
 家鳴りのような、年月を経た橋が朽ち落ちていくときのようなその響きは、ミシミシ、ミシッ、と繰り返し続く。
 寒冷地仕様の分厚い毛皮に覆われているために、何が起こっているか傍目には分かりにくい。

 だがこの映像を観ているサイには分かっているはずだった。
 これは打ち砕かれた骨を再構成し、新たに生成した細胞で血と肉を練り上げていくときの音だ。

 数発の銃弾を受け、ちぎれかけていた右前足が完治した。
 明らかに頚動脈を撃ち貫いていた首の傷もふさがった。
 吹き飛ばされていた耳も眼球ごと破壊された頭蓋骨も、時の流れを逆回しにしたように元に戻っていく。
 虎は立ち上がった。
 四本の足で地を踏みしめて雄たけびを上げた。

 サイは一部始終を観察していた。
 虎が大地を蹴りハンターたちに迫るのも、上がっては途切れる断末魔の悲鳴も、噛み千切られ飛び散った内臓が木々の枝にオーナメントのように引っかかるのも、カメラのレンズに血しぶきと肉塊が貼りつき画面をさえぎるのも。何もかも。
 ひときわ大きな悲鳴が上がり、画面が激しく揺れ、最後には横倒しになって画像そのものが途切れるまで、冷徹な観察者の目で見つめ続けていた。

『――アイ』
『はい、サイ』
『次はこれを盗みに行こうか』
 最後に。
 ピンクの舌で唇を嘗めながら、"怪盗"の顔で彼はそう言ったのだ。





 捕らえられた虎の名は≪我鬼≫(ウォ・クィィ)。どうやら現地人ではなく密輸組織側がつけた名らしい。
「えっと、あれって確か中国語で……」
『自我、あるいはエゴを意味する言葉ですね。日本では芥川龍之介の俳号としての方が知られていますが』
 船底貨物倉の扉は機械で操作するようになっており、人間の手では開けることができないように造られている。しかもその開閉には船長しか知らないパスワード入力が必要である。こうした貨物船の船員の中には、輸送物をくすねて裏に流すような不届き者もいるため、警備が強化されているのだった。
 アイと通信で会話をかわしながら、サイは固く閉じられた扉に近づいた。
「突然変異の虎が、なんで"エゴ"なんて名前つけられるわけ?」
『さあ、存じません。私が受け取った資料にはそれについての詳細はありませんでしたから』
「ふーん、まーどーでもいいや。ねえそういやウォ・クィィっていう読み方言いにくいよね。もう日本語読みでガキで良くない? ガキで」
 喋りながら、サイは扉に向けてひょいと右腕を伸ばす。肉体労働に従事してきた五十代男性の矍鑠とした腕だが、金属製のこの重い扉をこじ開けるにはそれでも不充分なのは間違いない。そこでサイは筋肉の細胞に意識を集中させた。
 細胞変異の方向の調整に、細かいメカニズムの把握はいらない。子供が骨や筋肉の構造を知らなくても走ったり跳ねたりできるのに似ている。要はイメージできればいいのだ。
 ――ミシリというおなじみの音とともに、サイの腕が怒張し膨れ上がった。
 ポパイの醜悪なデフォルメのように異様に盛り上がった筋肉は、鋼の扉に一撃で巨大な穴を穿つ。
 轟音とともに船が大きく揺れた。
「駄目だよねぇやっぱりボロい船は。セキュリティもうちょっとしっかりしとかないと悪い奴らに付け入られちゃうよ?」
『無理と分かっていて無茶な要求をするのは酷というものですよ、サイ』
 腕を元に戻しサイは笑う。また、ミシリ。
 数秒遅れて警報が鳴り出す。耳障りなアラーム音が狭い船内に鳴り渡る。
『急ぎましょう、サイ。人が集まってきては面倒です』
「ちぇ、うるさいなぁアイは。フツーの人間がいくら寄り集まっても、俺は止められやしないんだから平気だよ」
 口を尖らせながら船床を蹴る。アクロバットめいた身軽さで扉に空いた穴をくぐって、倉庫の中へ。
 虎以外に何を運んでいるかも確認済みである。薬物、臓物、銃器、レアメタル。およそ一般的に密輸という言葉で連想されるほとんどの品が揃っていたが、くだんの虎以外に動物はいない。ましてや≪我鬼≫は5メートル近い巨体、その檻の所在は倉庫内を見渡せば一目で分かるはずだ。
「あったあった」
 もっともサイが真っ先に≪我鬼≫の檻を見つけたのは、その大きさというよりはケモノ臭さに気づいてのことだった。
 毛皮の匂い。体毛の間でうごめく蚤の匂い。汗の匂いや糞尿の匂い。
 そして、耳を澄まして初めて分かるかすかな呼吸音と、ガリガリガリと何かを引っ掻くような音。
 白い布のかけられた巨大な物体から、それら全てが漏れてきていた。
『ど……すか……イ』
 スピーカーと頭蓋骨を通して響くアイの声が、遠く雑音の混じったものになった。倉庫の中は電波が悪いのだろう。
「まだ現物は見てないから檻だけだけど……でかいね。映像や資料でイメージしてたより圧迫感あるよ。やべぇ今俺すげぇワクワクしてる。早く殺してこいつの細胞(なかみ)が見たいね」
 数字で抽象化してしまうと実感はないが、実際に前にすると想像以上のサイズである。
 サイは檻を覆っている白い布に手を触れた。ひとまずはこれを取り払い、虎の姿を視覚的に観察しようと破り捨てようとした。

 そのとき。

 ミシリ、とサイにとっては聞き慣れた音が耳朶をなぶった。
「え――」
 ミシミシ、ミシミシ。ミシミシミシミシ、ミシリッ。
『サ……どう……ました?』
「何、これ?」
 細胞変異の音。
 自分の体が意に沿わぬ変異を遂げているのか。
 いや違う。

「やばっ……!」
 本能で危険を察して跳び退いた瞬間、ガキィという金属の折れる音がした。
 檻を包む白い布が膨れ上がって裂け――
 ぶち破られた檻の中から、金色と黒の巨大な獣がサイめがけて躍りかかった。