【2chさらし中】

原作:間人探偵能神寝雨露
最×愛のカプもの
原作既読推奨です
最後までネタがばれていないか、心理描写がくどくなっていないか
逆に人物描写などで書き手の思い込みが先行した結果不足している部分はないか
その他もろもろお気づきの点などを聞かせていただきたいです

 

 

【君に会いにいこう】

 

 東京都下東西京市市内、駅にほど近くアクセス容易。繁華すぎるわけでも閑散としてもいない、堂々たる一等地の最上階で、眺めも良いしコンビニもすぐそこ。立地的にはたぶん最高の条件だと思う。
 経営面は……よく知らないけど、前アイに調べてもらったところによれば、かなり儲かっているとの話。
 スポンサーの某調査会社は全国レベルの大企業だし、HPのブログでおなじみのお抱え秘書は何でもとんでもない美少女だとか。最近リニューアルしたらしく、野暮ったかった内装もハイセンスなものにガラッと変わった。探偵(役)の女子高生も、アヤ事件やHAL事件で定期的にマスコミに注目されつつ、視聴者にウザがられない程よいメディア露出度を保っている。
 世間の好感度も悪くないらしい。
 今の『ここ』にツッコミどころがあるとすれば、たぶん名前だけだろう。
 『桂木弥子魔界探偵事務所』。
 別に俺が迷惑するわけじゃないし、ブッちゃけどうでもいいっちゃいいんだけどさぁ。このネーミングは正直どうかと思う。イタいってゆーか電波ってゆーか。『魔界』だよ?『魔界』。
 依頼人がドン引きしないのが不思議なくらいだ。
「そんなこと言われたって、名づけたの私じゃないんだから困るんだけど」
「分かってるよ俺だって。ちょっと言ってみただけ」
 出された紅茶をずずっとすすりつつ俺は言った。
「……それで? 俺の依頼は受けてもらえるの? ネウロ」
 向かいのソファに座るのは、この事務所の探偵。女子高生探偵・桂木弥子だ。
 もっとも、この肩書きは表向きのもの。実態としてはただの傀儡でしかない。高そうな机の前で新聞を読みふけっている、この謎喰いの化物の。
 今回の本当の交渉相手でもあるこの化物は、俺の言葉に目線だけをちらっと上げてこっちを見た。
「『謎』のない依頼には食指が動かん。何度も言わせるな」
「うわ即答。……そう邪険にしないでよ。確かに依頼としちゃ単純な人探しだから、あんた好みの『謎』はないかもしれないけど、調査してくれてる間はこっちからは危害加えないって約束するし、報酬は充分に出すつもり。悪い話じゃないはずだよ?」
「くだらん、帰れ。この干からびたオタマジャクシが」
 すぱっと拒んで紙面をめくるネウロ。右妻首相電撃離婚の記事をすっとばして、国際面へ。敵視を通り越して華麗なまでに無関心だ。
「ちょっとそこの偽者の探偵さん、何とかしてよこの偽助手の唯我独尊と絶対零度」
「え、えーっと、えっと……でもあの、今までの経緯を思うと無理もないっていうかなんていうか……」
 俺の泣き真似に、目を逸らしてだらだら汗を流す桂木弥子。
 まあ、確かに無理もないかもしれない。  初対面でネウロの正体を見抜き、二度目の接触でネウロの命を狙うと宣言した俺だ。その次に互いに分かる形で顔を合わせたのは、ショットガンでこの化物の顔を狙撃したときだった。
 そんな俺にある日突然、人捜しの依頼なんて持ってこられても、反応に困るのはある程度分かる。
 ――とはいえ俺だって、何の考えもなしにこんなことをしているわけではない。
「別に、変な打算とかそんなんでここに来たわけじゃないよ。単純に、あんたたち以外にこれが手におえそうな連中が思いつかなかったってだけの話。こっちにも色々事情ってもんがあってね」
 言いながら俺は写真を一枚取り出した。バストアップの女が一人写っている。日付は二年ほど前の古いものだ。
「彼女の居場所を捜してもらいたいんだ。それもこの一枚の写真だけを元にして」
「……………」
「名前はアイ。隠しても多分バレバレだろうから先に言うけど、俺の仲間のひとりだよ。苗字は言えない。年齢も誕生日も住所も出身地も言えない。教えられるのはせいぜい血液型くらいなもんかな。あとは指紋ってとこか。DNAの再現までは、中身見た上できちんと記憶してないとできないしね」
 普通の調査会社や探偵事務所でこんなことを言ったら、お帰りくださいといわれるか、呆れた目つきで顔をひと撫でされるか、二つに一つだろう。引き受けてくれそうなところといったら、いろんな意味で非常識なこの事務所しか思いつかなかった。
「ふざけてるって言われそうだけど、これが結構真剣な話なんだよね。実際ココで断られたらほかに方法がない。自分の足で世界各地ふらふら回って捜すしかなくなるんだ。色々隠し芸とか人脈持ってるあんたらなら、と思ってさ」
 桂木弥子が苦虫を噛み潰したような顔をする。
 ネウロは相変わらず新聞に集中している。目を引いたらしい記事にペンで一本線を引く。
「連絡がとれなくなったのは二週間前。一時期仕事で別行動して、途中で落ち合う約束してたんだけどね。彼女、約束した時刻に待ち合わせ場所に来なかった。普段はこういうことにはきっちりしてて、破るなんてこと考えられない女なんだけど……
 その後ずっとケータイも他の連絡手段もつながらなくて、一切音信不通だ。そこらの事故やら事件やらでどうにかなる女じゃないし、これは何かの理由で怒ってて、こっちに連絡よこしてくれないんじゃないかなって」
 電話は何十回かけたか分からない。そのたびに「この電話は、電波のとどかないところに(以下略)」というお決まりの文句を耳にするはめになった。家にも行ってみたし、考えられる行動範囲は大体チェックしてみたが影さえ見当たらない。
 他の協力者に確認することも考えたが、アイに任せたほうが確かで楽ということで、殺し(と盗み)以外のことはほとんどアイに一任していたから、彼女がいないとそもそも連絡を取ることさえままならない有様だ。
 日頃の不精とものぐさをここまで後悔したことは多分、今までにない。
 俺が差し出した写真を、おずおずと桂木弥子は受け取った。覗き込んでちょっと眉をひそめる。
 角度によっては悲しそうにも見える悩み顔。ネウロの能力からしても難しい条件なのかもしれない。
「最初に経費込みで前払い、千。居場所を突き止めたら成功報酬で千。連れ戻してくれたら更に二千」
 単位は全部『万円』だ、もちろん。
「一週間以内に見つけてくれたらおまけして、こないだ盗んできた呪いの黒ダイヤの指輪もつけるけど? 元・オーストリーの富豪の所有。八人呪い殺したっていわれてる有名な奴」
「いやいや要らない! そんなの要らないから!」
「大丈夫、死なない死なない。呪いっていってもコレはガセ。俺、盗んで三日後に酔っ払い運転のトラックに轢かれたけどまだ生きてるから。
 ぶつかってそのまま一緒くたに壁に激突して、腰から下はぶっつぶれるわ炎上にまきこまれて火だるまになるわで大騒ぎになったけど、見ての通り今はこうしてピンピンして……」
「死んでる。それサイじゃなかったら死んでるよ」
「今ならシュールストレミングもつけとくよ? 禁輸品だよ日本にいるとなかなか食べられないよ?」
「そ、そんなテレホンショッピングみたいにおまけいっぱいつけられたって引き受けないからね! でもこれは一応もらっとくね! ありがとう!」
 シュールストレミングの缶を抱きかかえる桂木弥子から、俺はネウロのほうに視線を移した。
「これでも足りない? ネウロ。こっちとしては報酬を惜しむ気はないから、何でも言ってくれて構わないよ。
 これは俺にとって必要なことだからね」
「フン」
 魔人は新聞を閉じ尊大に鼻を鳴らす。
 そのまま席を立った。
「話にもならんな。ヤコ、この場は任せたぞ。我が輩は少々出かけてくる」
「なっ……」
 心を広く持てとアイにはさんざん言われてきているが、さすがにここまであからさまに軽んじられるとカチンとくる。
「ちょっと待ってよネウロ! 俺がこんな頭下げて頼んでるんだよ!? 誰かになってもいないときにこんな下手に出るの、この前アイに皿割ったの怒られて以来なんだからね!?」
「黙れこのヘビの抜け殻め。貴様の相手にはアオミドロでも充分すぎるくらいだ」
「ヘビの抜け殻って俺のこと?」
「アオミドロって私のこと?」
「ともあれ、だ。ヤコよ、こいつを追い返しておけ。三分以上長居させると承知せんぞ」
 スタスタと出口のほうに向かうネウロ。
 音を立ててドアが閉まった。





「……あ・い・つ〜〜〜〜〜! むっかつくっ! 考えられる限りの猟奇な手段でねちねちいたぶって殺してやる! 進化した俺を見せつけてやるから首洗って待ってろこの化物っ!」
「さ、サイ、サイ、落ち着いて」
 ドアに向かって中指を立てる俺を、桂木弥子が宥めてきた。
 ――まあ確かに、この場にいない奴をののしっても虚しくなるだけだ。
「……はぁ〜〜〜〜……」
 俺は肩を落として頭を抱える。
「あーもうどうしよう。他のトコには頼めないし、自分で捜しだすしかないのかなぁ……でも心当たりもないしなりすましてなきゃならない奴いっぱいいるし、どうしようも……」
 年齢誕生日出身地親兄弟、といったアイのデータは、実を言うと『訳あって言えない』というわけではない。
 単純に『分からない』のだ。
 中にはちゃんと把握していたはずの情報も混じっているのだが、変異する脳細胞の悲しさ、影も残さず消滅してしまっている。
 必要だというなら住所くらい教えても構わないが、アイは普段から極力自分の痕跡を残さないように生活していたから、家を調べても役に立つものなんて出てくるはずはない。ほぼ間違いなく無意味に終わるだろう。
「ねえ、サイ」
 苦悩する俺に桂木弥子が口を挟む。
「ネウロはあの通りだから仕方ないけど……よかったら私が話聞こうか?」
「あんたに話してどうすんのさ。それでアイが捜し出せるわけじゃないでしょ」
 頭を抱えたまま、目線だけを上げて俺は彼女を睨んだ。
 あの魔人の存在を抜きにしていうなら、この少女自体は本当に単なる女子高生にすぎない。
「うん、大したことできないと思う。ごめんね」
 あっさり頷く偽探偵。
「でもなんていうか……ほら。そういう不安なときって、はけ口っていうか愚痴聞いてくれる人が必要だと思うから。見た感じ、今サイの近くにいないんでしょ? そういう人」
「不安?」
 そう見えるんだろうか。今の俺は。
「聞く人自体は誰でもいいの。吐き出すこと自体が大事なんだって私思う。私のことはカボチャか何かだと思ってブッちゃけてくれればいいから」
「………………」
 俺は彼女の顔を見つめる。
「あんた、塔悟んちの事件のときと比べて何か変わった?」
「え? 別にそんなことないと思うけど」
「何かこう、大人っぽくなったかなと思ってさ」
 十代の少年少女は数ヶ月で変貌することがあるが、彼女の場合はそういうのとも違う気がする。何か、一つの人生の転機を乗り越えたような。
 俺はすっと真剣な顔を作った。
「……話、聞いてくれるの?」
「うん」
 彼女は頷いた。





 一時間後。
「俺が今どんっだけ苦労してるか分かる? ねぇ? 死体運ぶの自分でやんなきゃだし、スケジュール管理も大変だし、腹減っても飯が自動的に出てこないし。服が汚れても着替えがどこにあるかわかんないし、歯磨こうと思っても歯ブラシの場所もわかんないし。夜中に起きてアイス食いたいってごねても買ってきてくれる人いないし! あーもう何でいなくなっちゃったんだよアイー!」
「さ、サイ、落ち着いて、落ち着いてぇぇ……」
 これで何度目か、ひきつった顔の桂木弥子の静止。
 でも一度ヒートアップしてしまったらもう止まらない。制服の襟首をひっつかんで俺はまくしたてる。
「何が悪かったんだと思う? なんで出てきてくんないんだと思う? 俺嫌われた? 嫌われたのかな? 血まみれのままアイんち行って、ベッドの上勝手にごろごろして汚したのが悪かった? 風邪ぎみで辛いのに作ってくれたメシ、嫌いだってごねて食わなかったのが原因? それともメイドの変装したとき、無理やり写真撮ろうとしたのがよくなかった?!」
「そ、そんなことしてたの……」
「でもさぁ〜、しょーがないって思わない? シャワー浴びるの面倒だったし、ピーマン苦いから入れないでって言っといたはずだし、メイドは絶対似合うと思ってちょっぴり楽しみにしてたのに。このくらいで怒るなんて絶対心狭いよね? ねぇ?」
「……う、うん……せまい……せまい、と思う……だからサイお願い首は絞めないでぇっ」
「あ。ごめん」
 探偵の喉からこの世のものとも思えぬ呻き声が漏れ出した。さすがにやばいかと思い俺は手を離す。
「ぅげほっ、げほっ。ネウロ以外から初めて理不尽な暴力受けた……」
 しばらく咳き込んでから大きく息をつく。
「メイドより秘書のほうがよかったのかなぁ。髪アップにしてスーツにメガネとか。確かによく考えたらアイは知的系だし、あっちの方が似合うっちゃ似合うかも。ねえ探偵さんどう思う?」
「どんどん話がずれてきてるよサイ……」
 一旦我に返ったおかげか、少しずつだが頭が冷えてきた。
 深く息を吸って呼吸を整えていると、横からすっと紅茶のカップが差し出される。
「『おかわりいりますか?』だって。さっき飲んでたやつもう冷めちゃったでしょ」
「ありがと。もらうよ」
 受け取って一口飲む。
 飲んでから『あれ? 今のカップ誰が出してきた?』とふと思ったが、まあ細かいことは気にしないに限る。
「……仲、よかったんだね」
 桂木弥子も新しい一杯を飲んでいた。
 さわやかな香りを嗅ぎながらぽつり、と口にする。
「仲?」
「うん。聞いててちょっとほのぼのした。わがまま言ったり、ピーマン好き嫌いしたりして呆れられてるサイが目に浮かんで。怪盗だとか犯罪者のカリスマだとか、世間で言われてるイメージとは全然違うなって」
「世間のイメージはしょせん世間のイメージだからね。マスコミとかが勝手に作り上げてるだけさ。自分の中身も分からない俺がこんなこと言うのもお笑いだけど、どっちかっていうと『本当の俺』はこっちじゃないのかな」
「それって実はすごいことだと思うよ。本当の自分を曝け出して付き合える相手になんて、そうそう出会えないもん」
 紅茶はおいしい。アイがいつもブレンドしてくれるのもいけるけれど、こっちのほうが柔らかいというか、落ち着く香りだ。これで髪の毛入ってなければ最高なのに。
「女子高生が悟ったような口きくね」
「生意気だったかな、ごめん。でも本当にそう思うから。……大事な人なんだね」
 幼さを残した頬を緩ませ、ふんわりと微笑む探偵。
「そういう相手って、いなくなって初めて大切さに気付くよね。今まで当たり前だったことが突然当たり前じゃなくなって。親だからちょっと話が違うかもしれないけど、私もお父さんが死んだあとしばらくそんな感じだったから、分かる気がするな」
「死人と一緒にされても何だかなあ」
「あー……ごめん、つい」
 夕方から予定が入っているので、あまり長居はできなかった。
 某有名タレントとして、十年以上続いている長寿番組の収録に参加しなければならない。
 鬱陶しいけれどこれもまあ、"怪盗"の活動の一環として必要なことだ。
「アイさん捜しの件なんだけど、よかったら私のほうから、スポンサーの会社に頼んでみようか?」
 事務所を出る間際、桂木弥子がそんなことを言った。
「できるの? あんた単なるネウロの奴隷でしょ?」
「調査会社のほうに事務所の雑用……じゃない、よく手伝いしにきてくれてた人がいるから、その人に頼んでみる。もちろん、ボランティアでやってるわけじゃないから無報酬ってわけにいかないとは思うけど。それなりに大きい会社で人脈もハンパじゃないって話だし、もしかしたらネウロに頼らなくても見つかるかも」
 俺はちょっと考える。
 当てになるかどうか分からないが、自分の足でひとつひとつしらみつぶしに捜すよりは早いかもしれない。
「じゃあお願いしようかな。ああ、分かってるとは思うけど、怪盗"X"が依頼主だってのは伏せといて」
「分かってます」
 こくりと頷く。
「それじゃあね。紅茶おいしかったよ。依頼は受けてもらえなかったけど、そこのシュールストレミングはあんたにあげる。話聞いてくれたお礼ってことで。それからネウロが帰ってきたら、次こそ殺すから首洗って待ってろって伝えといてよ」
「うん」
 手を振る彼女に背を向けて、事務所のドアノブに手をかけたとき。
「――サイ」
 普段よりトーンを落とした声で、桂木弥子が俺を呼んだ。
「なに?」
 振り返る俺を、長いまつげにふちどられた目で覗き込む。
 淡いピンク色の唇が動いて、言った。

「負けないでね」


 負けない。何に?
 気になったけれど、迫る収録開始時間のせいで聞き返すことはできなかった。


 



 その夜、夢を見た。


『――また盛大に破いてしまわれましたね、サイ』
 呆れたような声で、アイが言う。
『どこかの軍隊か警察と格闘でも?』
『ハズレ。そんな面倒なことしないよ』
 俺はソファの背もたれに身をもたせかけながら、横で針仕事をするアイを眺めている。
 白いなめらかな指を滑らせて、布の繊維の隙間に針の先をスーッと沈み込ませていく。いったん隠れた針にまた布の下から顔を出させ、更に再び別の隙間にうずめ、小さな縫い目を整然と並べる作業。ただひたすらにその繰り返し。
『うっかり超デブに"なっちゃって"さ。サイズきっついの無視してちょっと動いたら服がビリッていったんだ。文句言うなら俺じゃなくてそこのデブに言ってよ』
 そこのデブ、と言いながら俺は、部屋の隅に転がる大きな箱を指差した。
 バラバラにした死体を詰めた≪赤い箱≫。俺のシンボル。
 アイは合点したように頷いてから、
『いえ。文句を言いたいわけではありません。繊維の強度に問題があるのなら、新しく注文しなおさなければと思っただけです』
『相変わらず用心深いな。どーでもいいじゃん、そんなの。服が丈夫だろうがヤワだろうが、ちょっとやそっとの怪我ならすぐ治せるんだから俺は』
『それはそうですが……服が駄目になった状態で体を再生させてしまうと、衆目に全身を晒してしまうことになるでしょう? 罪状に猥褻物陳列罪まで加わってしまうと、苦労して築き上げてきた怪盗キャラが崩れてしまいますので』
『またどーでもいいこと気にするね、あんた』
 というか、とっくに猥褻物陳列罪は加わってるんじゃないかと思うな。と俺は思ったが口には出さないでおく。
 特にここ最近、放送コードぎりぎりくらいの恰好で何度も人前に出てしまっている。
 俺は別のことを質問して話題を変えた。
『ねえ、それずっとやってて飽きない?』
『飽きません。単純作業が苦にならない性質ですので。サイこそ、こんな地味な仕事をずっと見ていて飽きませんか』
『んー……飽きは、しないかな』
 話ながらも手は止まらない。文字通り一糸乱れぬ一連の作業。
 単調な動きのはずなのに手元に目が惹きつけられてしまうのは、その長い指が白い糸と銀の針によく似合っているからだろうか。
 ほっそりと長いラインも、柔らかな指先のふくらみも、あつらえたみたいにぴったりしている。
 それでいて少し懐かしくもあった。
 もちろん、そんなこと口に出して言ったりはしないが。
 曖昧な返事を返しつつ手元を眺めていると、アイがくすりと小さく笑みを漏らした。
『な、何?』
 この鉄仮面女がこんな表情を見せるのは滅多にないことだ。
『いえ。ふと思い出したことがありまして……あなたと私が初めて会ったときも、こうして針と糸を使って作業をしていたな、と』
『そうだったっけ?』
『十年近くも前のことです。覚えていらっしゃらずとも無理はありません』
 変異する細胞は過去の全てを曖昧にする。一分近く首を捻ったが結局、サルベージすることはできなかった。


 初対面のときも使っていたという針と糸。
 針仕事をする手元にほんのり懐かしさを覚えるのは、その記憶が完全に消え去ることはなく、脳のどこかに残っているためか。
 何か条件が整えばそのうち思い出すことも――あるのだろうか?


『ねえアイ』
 ふと、呟くように俺は尋ねる。
『俺について来たこと、後悔してない?』
 針を進める彼女の手が止まった。
『いきなり何を仰います』
『別に。ただの、いつもの気まぐれ。明日になったらしたこと自体忘れてるどうでもいい質問だよ』
 俺は体重をかける方向を変え、アイの体にもたれかかった。
『サイ。手が使えません』
『使わなくていいから答えてよ。……俺はもう、あんたと初めて会ったときの俺じゃない。そのときのことなんてほとんど忘れてるし、覚えてないからよくわかんないけど、たぶん性格だってずいぶん変わってる。それでも、俺についてきてよかったって思える?』
 アイは針を干し首製の針山へと沈み込ませ、繕っていた俺の服を自分の体の脇に置いた。
『率直な意見を述べさせていただけるなら、その聞き方は少々卑怯かと思います』
『……………』
『あなたは既にその答えをご存知ですから。私がノーと答えるわけがないということを』
 柔らかい指の先が俺の髪に触れてきた。
『サイ。あなたは私にとって、暗闇の中で見出した唯一の光です。絶望と諦念に干からびたようになっていた私に、あなたは希望と生き甲斐をくれました。あなたがどれだけ変化しようと、私にとってそれは変わることはないのです。あなたという人について来たことを悔やんだことなど一度たりともありませんよ』
『……フン』
 真摯な答えに鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまったのは、我ながら捻くれていたかな、とちょっと思う。
 でも仕方ない。こういうときにどう答えたらいいのか俺は知らない。
 微笑んでありがとうとでも言えばいいのか、思いっきり抱きしめてキスでもすればいいのか。どっちにしても俺の柄じゃない。
 針仕事が中断されて空いたアイの膝の上に、俺はコテンと頭を乗せた。
『眠いからちょっと寝るよ。おやすみ』
『さっき午睡から醒められたばかりと記憶していますが。また随分と長く睡眠を取られるのですね』
『何、文句ある?』
『いえ何も。ではごゆっくり。おやすみなさいませ』


 柔らかいアイの膝の上で、俺は沈み込むように眠りに落ちていった。





 夢の中で意識を失うと同時に、現実世界の俺は覚醒した。
「う……ん……」
 低く呻いて身を起こす。
「起きた〜ぁ?」
 戻りきらない感覚に目をしょぼつかせていると、横から気の抜けた女の声がする。
「んー……」
 あれ? この女誰だっけ?
 ああそうか。今なっているこの男の愛人だ。
「よく寝てたよねぇ〜、ゆうべぇ。もうお昼よぉ〜?」
 妻と三つ子の娘がいるのに、娘と同い年の若い女にうつつをぬかしているこの男もこの男だが、それを知っててしゃあしゃあと付き合いを続けているこの女もまた相当なものだ。
 勝手に殺してなりすましておいて何だが、こんな軽薄そーなアホ女の何が良いんだかなー、と思う。
 スタイルだけは抜群にいいから多分そのへんに惹かれたんだろうが、少なくとも俺はゆうべの行為に満足できなかった。
「暑苦しいのであまり擦りつかないでくれんかね?」
 中年男になりきって俺は答えた。
 ぷくっと頬を膨らませてむくれる女。
「ちょっとぉ〜、なんか冷たくなぁ〜い? 久々なんだからぁもうちょっと優しくしてくれたってぇ〜」
「……やかましいぞ」
 今隣に欲しいのはあんたじゃない。
 抱きついてくる女の体を振り払おうとしたとき、ケータイが鳴った。
「! ……ちょっと待て」
 取り上げて通話ボタンを押す。
”サイ?”
 まだ若い女の声。桂木弥子だ。
「ああ、あんたか。早かったね。例の話は頼んでくれた?」
”うん、それはもちろん。――ってゆーか、いつもと声違うくない?”
「俺は誰でもあって誰でも……あー、めんどいから以下略で。どうしたの? ひょっとして何か分かったとか?」
”そう、それなの。要る可能性が高い場所が浮かび上がってきたって吾代さんが。それで、もしサイさえ良ければ一緒に直接行って確認してみようと思うんだけど”
 ――確認作業って普通そっちでやって、所在確かめてから依頼主に伝えないか普通?
 ちょっと思ったが、まあこういうことにかけては"探偵"である向こうの方がプロだ。
 盗みと殺しが本分である俺が口を出すことではないだろう。
「分かった。ちなみにどこ?」
”××県の織円都群、悪路井戸って村。交通の便が悪いから電車とかよりは車のほうがいいと思うんだけど……悪いけどうちの事務所車ないし、知り合いの人も車出しだけは死んでもイヤって……もとい今回は無理だって言ってるの。サイ、車の運転できる?”
「誰に聞いてるつもりなのあんた。言っとくけど俺、旅客機とか戦車とか含めて二十種類以上免許証もってるよ。全部他人のだけど」
 事務所に寄って彼女を乗せ、直接悪路井戸とやらに向かうことになった。
 用件を終えケータイを切る俺に、また馴れ馴れしく触れてくる女。
「ねぇ〜、今の電話ナニ〜? 子供みたいな喋り方しちゃってぇ、おっかしいのぉ〜」
「悪いけど急ぎの用事が入ってね。もう行かなきゃならないんだ。だから、」
 俺はケータイを置き、女の頭をおざなりに撫でる。
 そしてそのまま鷲掴みにし、思いっきり壁へと叩きつけた。
「ブへッ」
 間の抜けた悲鳴が響いて女の頭が破裂した。脳漿と血がシーツに赤い染みを作った。
「シャワー浴びて着替えて、車出してっと。日が暮れるまでに間に合うかな?」
 顔に飛び散った血を拭いながら、微妙なところかもしれないと思った。





「……なんかサイと話してるって気がしない。すごく変な感じ」
「どう見ても子供のあの年カッコで運転して高速なんか入れないでしょ。気持ちはわかるけど着くまで我慢してよ」
 桂木弥子は後部座席に乗せた。
 長時間のドライブが退屈らしく、運転中の俺に身を乗り出すようにして話しかけてくる。
「アヤ・エイジアでも聴く? こないだ出たアルバム最新作」
 だんだん鬱陶しくなってきたので、彼女の関心を逸らすためにそう聞いた。
「あ! それ売り切れ続出で今入手困難なやつでしょ? 聴く聴く」
「俺のじゃなくて、俺が顔として使ってる『こいつ』の私物だけどね」
 曲が流れ出す。
 一曲目は半年近くの間、ヒットチャート一位を独占しつづけたラブソングだ。
「サイって、自分ではアヤさんの曲聴かないの?」
「嫌いじゃないよ。一曲一曲のつくりがすげー丁寧で、音楽に対する姿勢が真摯なのは聴いてて分かるしね。ただ、逮捕される前の曲は正直あんま好きじゃなかったな。今獄中で出してる曲は普通にいいと思う。通じるものは感じないから、アヤを箱にしたいとは思わないけど」
 緩めのカーブ。俺はハンドルを切る。
 桂木弥子は『ふうん……』と呟いた。
「そっかあ。サイは『ひとりきり』じゃないんだね」
「は? いきなり何の話?」
 きょとんとする俺に探偵が補足した。アヤの歌には、『ひとりきり』の人間の脳を揺らす効果があるのだそうだ。もっとも逮捕後はそれが更に進化して、今やどんな人間の脳も思い通りに揺さぶれるそうだが。
「へえ、また人間離れした話だね」
「あなたに言われたくないと思いますが……」
「まあ考えてみれば当たり前だろうね。中身探しに忙しくて、孤独なんて感じてる暇なかったし」
 下り坂にさしかかった。緩めにブレーキを踏んで速度を落としていく。
「アイさんのおかげ、とかじゃなくて?」
「…………。それもないではないかもね」


『……何か、抱えきれないことがあれば仰ってくださいね』
『全て引き受けられるとまでは言い切れませんが、いくらかならお手伝いできると思います』
 自分がひとりきりだなんて思ったことは一度もない。
 不安なときも辛いときも彼女が傍にいた。


「ぎゃああっサイ前! 前、前ー! カーブカーブっ!」
「あ。ごめん」
 慌ててキッとハンドルを切る。
 スピードをあらかじめ落としてあったのが幸いした。ガードレール接触寸前で車は曲がっていく。
「運転中に考え事とか勘弁してよ! 死ぬ死ぬ死んじゃう!」
「うるさいなあ、俺はこのくらいで死ぬほどヤワじゃないから平気だって」
「サイじゃなくて私の命が危ないって言ってんの!」
 悪路井戸村に着くまで、あと三時間といったところだろうか。





 その三時間をアヤの歌と雑談でどうにか潰し、俺たちは目的地に辿りついた。
「ああ、悪路井戸村ってここのことか」
 俺はぽんっと手を打った。
 延々と続く面白みもない田園地帯と、三百メートルに一戸くらいしか民家のない辺鄙ぶりに見覚えがあったのだ。
「え……覚えてるの?」
 驚いたような顔で桂木弥子が聞いてくる。
「うん、ちょっと前に来たことあるんだよ。アジトっていうとちょっと違うな、アイが休養にいいんじゃないかって見つけてきたところでさ。彼女がいるらしいって場所、ひょっとしてあの山の頂上にある『穂浪荘』ってロッジのことじゃない?」
 指差してみせる。こくこくと頷く桂木弥子。
「じゃ、やっぱここにいる可能性高いな」
 なんで機嫌を損ねてるのか知らないが、そこに引きこもって一人で生活してるに違いない。あの辺は確か電波もろくに通っていない。道理でケータイも通じないはずだ。
「あの山、途中から道路なくなるからかなり歩かなきゃなんないんだよね……あんた山歩きとか大丈夫?」
「平気」
 探偵は頷いた。


   記憶していた通り山中で舗装道路が途切れ、歩いて登らなければならなくなった。
 実際狭いわごつごつしてるわ、とてもじゃないけど車の通れる道ではない。
 体を動かすとなるとやっぱり、動かし慣れたいつもの姿のほうがいい。というわけで少年の姿に戻った。
 山頂まで黙りこくりながら歩くのもあれなので、やっぱり何かしらは会話をすることになる。
「さっきも言ったけど、ここ見つけてきたのはそもそもアイでさ」
 中身探しは進まないやら、ネウロはなかなか殺せないやらで、苛々してささくれ立っていた俺に彼女が勧めてきたのだ。
『今のあなたに必要なのは、前に進もうと焦ることではなく、精神的な休養です。
 一度外部からの情報をシャットオフして、ゆっくり落ち着かれることをお勧めします』
 そして、こんな山奥にある小さなロッジを見つけてきた。
 ずいぶん前に借り手が自殺したとかで、もう何年も誰も入っていなかったところだそうだ。オーナーは長い髭を伸ばした七十すぎのじいさんで、借りたいと申し出ると大げさなくらい感謝されたという。
「自殺者が出てなくても借り手ないだろうなぁと思うくらい、辺鄙で不便なとこだったな。ネットもテレビもラジオもないんだよ。ケータイは圏外だし、最寄の店に行くのに小一時間歩かなきゃなんないし。しかもその店ってのがコンビニでもスーパーでもなくタバコ屋だよタバコ屋。何この昭和の世界へのタイムスリップ」
 逆にいえば、だからこそアイはここを選んだのだろうが。
「休養っていってもやること別になかったから、アイとチェスしたり、火起こしてカマでご飯たいて食事の用意手伝ったりしてたなあ。他にもキノコ取ってきたり川で魚ゲットしてきたり」
 てっきり『うわあ何それおいしそう!』とか食いついてくるだろうと思ったら、意外にも神妙な顔で探偵は耳を傾けている。
「……でもやっぱ焦る気持ちってなかなか消えなくてね。躁鬱みたいな感じでどんどん精神不安定になっていって……傍にいたアイに色々やつあたりとかもしちゃって……今思うと悪いことしたかなぁって……」


 掌に生々しい感触がよみがえった。
 細い首に触れて、掴んで一気に絞め上げる。
 か弱い抵抗が途切れて消えてなくなってしまうまで。


「サイ?」
「あ……ごめん」
 少しボーッとしていたようだ。
「寒くなってきたからちょっとペース上げようか。大丈夫? いける?」
「私は平気。ネウロに鍛えられてて見かけよりは体力あるから、気にしないで」
 今はとにかく山頂を目指そう。
 アイに会いにいこう。





 枯れ果てた木々の枝の向こうに、丸太を組んだロッジが見えてきた。
 前に来たときも思ったことだが、建ててからどれぐらい経っているんだろう。アイは『自殺者が出たのは数年前』とか言っていたが、数年どころか数十年前でも俺は驚かない。
「!」
 入り口の方へと向かいかけて、俺は立ち止まった。
 風に木の葉がすれあう気配、虫や動物のかすかな足音。そういったものに、明らかに異質な気配が混じっているのに気付いたからだ。
「それで隠れたつもり? からかってないでさっさと出てきなよ。――ねぇ、ネウロ」
 ガサガサとうごめく音がして、木の上から何か巨大なものが降ってきた。
 長身のシルエットに、芸人かと思うくらい珍妙な色合いのスーツ。
 謎喰いの魔人。
「ネウロ! あんた何やって……」
「謎のない依頼には興味ないとか言ってたくせに、何のつもりさ? 答えの内容によっては足の一本くらい貰ってくよ」
 俺の睨みに、眉ひとつ動かさずネウロが答える。
「そう加熱するな。貴様の可能性を確かめてやろうと思って見に来ただけだ。より正しく言うなら……『貴様の可能性が死んでいないかどうか』をな」
「ネウロ! またそんなこと言って」
「構わんだろう。そこのドアを少し開ければすぐにでも分かることだ」
 何言ってるんだろうこいつら二人は。
 わけが分からない。


 無視してドアノブに手をかける俺に、ネウロが言った。
「サイよ。貴様本当に覚えていないのか?」


 ――ドクン。
 心臓が、鳴った。
「……何の、こと? ネウロ……」
「決まっているだろう。貴様自身がしたことについてだ」


 胸がざわつく。ノブを握る手が細かく震えだす。
 やめてよ。そんな全知全能の神様みたいな声出さないでよ。


「現実から目を逸らし続けるのはもういい加減に終わりにしろ。我が輩たちとて、そう何度も貴様に付き合ってやるほど暇ではない」


 やめて。言わないで。言わないでよ。そんなこと。
 ああそうだ俺をいたぶって楽しんでるんだね?
 前にクレーン落として内臓潰したときみたいに。


「貴様の捜している女はもう……」
「うるさいっ!」
 叫んで振り払った。
 聞かない。
 あんたの言うことなんか絶対聞いてやらない。


 ほとんど体当たりでドアを開けた。
 鍵が壊れてガキッという音が響いた。
「アイ! 俺だよ、いるんだろ――」
 倒れこむように中に踏み込んで、俺は、絶句した。
 中は無人だった。見慣れたすらりとした長身もそこにはなかった。
 ただ部屋の隅に大きな箱が一つ転がっていた。
 殺して潰して、粉々にして、細胞のすみずみまでじっくり観察できるように、透き通ったガラスの立方体に詰めたもの。


 俺の、≪赤い箱≫。


「それが、貴様の捜していた女だ」
 ネウロの声が落雷のように俺を打った。


 ――ああ、そうだ。やっと……
 思い、出した。


『ねぇ、アイ。あんたはいつも俺に優しいよね』
『なんでも俺の言うこと聞いてくれて』
『潰れそうになってもいつも支えて励ましてくれる』
『ねぇアイ、だからさ、今度は』
『あんたの中身を見せてよ』


 俺が殺した。


 白くて細い首に手をかけて、爪まで食い込むくらい絞めあげて、酸素を求める唇をキスでふさいだ。
 はかなく抵抗しつづける体を、二度と動かなくなるまで押さえつけた。
 事切れた彼女の服を脱がせて、消えていくぬくもりをしばらく楽しんで解体に移った。
 何一つとして問題はなく、全て滞りなくスムーズに運んだ、はずだった。
 でも。
『おはよ、ア――あれ? 蛭? なんであんたがここにいるわけ? アイは?』
『アイなら死にましたよ、サイ。おはようございます』
 アイが死んで数日後。代わりに俺の身の回りの世話を担当することになった蛭は、きょとんと目をしばたかせた俺に、悲痛な顔で口を開いた。
『あ、そっか。アイ、俺が殺したんだっけ』
 呟いて俺はいつも通りに着替え、いつも通りに"誰か"になって仕事に出かけた。
 それから数週間後、仕事のついでに黒ダイヤの指輪を盗んできた俺は、ケースをぱかっと開けて蛭にそれを見せた。
『ね、これどう思う? アイにあげようかと思ってかっぱらってきたんだけど……そういや、アイはどこ?』
『アイは死にました』
『あ、そうか……そうだっけ、じゃあこれどうしようかな。あんたいる?』
 蛭が貰い受けるのを嫌がったので、黒ダイヤはしばらく俺のアジトで寝かされることになった。
 そして更に一ヶ月後。
『アイー、腹減ったー、アップルパイ食いたい、作ってー。あれ? いないの? アイ?』
 またそんなことを言い出した俺に、蛭は呆れと哀れみの混在した目を向けて、そして俺の元を去ることにしたと告げた。
『俺はあなたに憧れていました。あなたの力に。それから、ある意味では個性に。それから、絶えず前に進んでいこうとするその姿勢に』
『あなたのようになりたいと思っていました』
『でも俺の憧れたあなたはもういない。彼女が死んで一緒にいなくなってしまった』
『だから俺はここで失礼します。さようなら、サイ』
 別れ際に確か、そんなことを言われたように思う。
 アイとアップルパイにすっかり気を取られていた俺は、彼女はいつ帰ってくるのかなーと思いながら生返事だけを返した。


 ――今の段階でどうにか思い出せるだけでこれだ。たぶん、もっと何回も何十回も、あるいは何百回も似たようなことを繰り返していたのだろう。俺に心酔していた蛭が耐えられなくなって去っていくほどに。
 蛭が去る数週間前には、葛西も姿をくらましてしまっていた。すっかり見切りをつけたのだろう、こちらは何ひとつ告げないまま。
 俺は一人になった。


 自分の手で彼女の息の根を止めておいて、それを呪うようになるまで十日もかからなかった。
 わがままを言っても、ピーマンが嫌いだとごねても、血まみれのままベッドの上でごろごろしても、素のままの俺を拒むことは絶対にしなかったアイ。俺の不安を汲み取っては、頭を撫でたり抱きしめたりしてくれたアイ。
 でもどんなに悔やんでも望んでも、彼女が俺のところに帰ってくることはない。
 呪って。迷って。悶えて。否定して。
 そして俺は、忘れることを選択した。
 彼女はどこかで生きていて、ただ姿を見せてくれないだけだと、そう思い込むことにした。


「……サイが私たちとここに来るのはね、これで五回目なのよ」
 箱の前にへたり込んだ俺に、探偵がぽつんと言った。
「こうやって、何度も何度も同じことをくりかえしてるの。事務所に来て、アイさんを捜してくれって言って、ここに来て、箱を見て、それでようやく思い出して……そうしてまた、辛くなって、忘れて」
「……っははは、はははは……」
 首をかくかく揺らして俺は笑った。
 笑うしかなかった。
 笑いながら、泣いた。
「ごめん。ほんとはこんな回りくどいことするべきじゃなかったのかもしれない。でも四回目に来たとき、すぐ教えたらパニック起こして暴れてまた忘れちゃったから……いろいろ聞きながら、誘導するみたいにして思い出させていこうかって考えて」
 探偵の言葉もろくに耳に届かない。
 目の前の箱を抱え込んだ。
 何度も俺を抱きしめてくれた温かい体は、今は硬くて角張っていてただひたすらに冷たかった。
「サイよ。我が輩からの最後の忠告だ」
 あくまで冷徹に、ネウロが言った。
「貴様はなかなかの逸材だ。単に性能という意味でも、進化の可能性という意味でもな。我が輩としても失うのは惜しい。今ならばまだ戻って来ることは可能だぞ。その先には袋小路しか待ってはいない。貴様にまだ前に進むつもりがあるのなら……」
「袋小路……」
 それは、アイを殺したことをまた忘れるということか。
 戻ってくるはずのない彼女をひたすら待ちつづけ、会えるはずもない彼女を捜しつづける。
 つながるはずのない電話を何度も何度もかけ直して、届くはずもない謝罪の言葉を必死に考えて。
 そうするうちにいつか真実にたどり着いて振り出しに戻る。
 そんな無限ループを永遠にくりかえすということ。
「サイ。お願い。もう忘れないで。忘れちゃだめ」
 探偵が俺の手を握ってきた。
「忘れたらまた後戻りだよ。……ねえサイ、自分の中身を探すんじゃなかったの。
 アイさんだってそのために手伝ってくれてたんでしょう。
 ここは耐えて乗り越えなきゃだめ。負けないで」


 そうしなければ前に進めない。


 クッ、と俺は声をもらした。
「サイ?」
「そっか……自分の中身か。そうだよね、そのために俺はずっとここまでやってきたんだった」
「そう、そうだよ。それを思い出そう? それで、」
「でも、さ」
 探偵の言葉を俺は遮った。
「たとえ自分の中身を見つけたとしても、それを見てくれる相手がいないんなら何か意味なんてあるのかな? アイはもういないのに。俺の中身を見てくれる人はもう、いない、のに」
 ミシッ、ミシッと低い音が響く。
 探偵の顔がひきつった。
「だめ、サイ、違う、それはだめっ」
「……あんたがそうやって止めてくれるのは、嬉しい、よ」
 脳の軋みは続く。
 薄れていく意識の中で俺は言った。
「でも、もう、いいや……彼女なしでこのまま生きてくのは、つらい……から」
 忘れたい。
 アイがこの世界にもういないなんて考えたくない。
 俺の日常に、彼女に依存してなかったことなんて何ひとつなかった。
 着替えのたび歯磨きのたび食事のたび、なにげない作業一つ一つに、彼女のいない空白を思い知らされて、胸が締め付けられて痛むのだ。
 ことあるごとに思い知らされる。俺の今いるこの世界に、彼女はもう存在してはいないのだと。
 俺が消してしまったのだと。
「忘れ、させて……」
 繰り返しになってもいい。永遠に続くループの中にまた巻き込まれることになっても構わない。
 お願いだから忘れさせて。
 傍にいてもらうことが二度と望めないなら――
 せめて俺の意識の中でだけでも、彼女を生きたままで。


「サイ!」
 最後に聞いたのは探偵の悲痛な叫びと。
「やはり、駄目だったか」
 諦めたような、ネウロの声。





「何故泣いているのだ?」
「だって――」


 聞き覚えのある声に、俺は目を覚ました。


「こいつは乗り越えられなかった。ただそれだけのことなのだ。真実を知ることができた。方向転換する機会も貴様に与えられた。にも関わらず再び現実から目を逸らし、終わりのない連鎖の環に戻ることを自らの意思で選んだのだ」
「でも、でも。こんなの、……なんの救いもないよ」


 頭が重い。視界がかすんではっきりしない。


「言ったはずだ、ヤコ。忘れることは進化を止めることだと。進化を捨てたサイはもう抜け殻だ。後はもうゆるやかに死んでいくだけだ」
「覚えてるよ。わかってる。でも、これは……」


 寝る前にアルコールでも飲んだろうか?
 覚えていない。ウォッカをガロン単位でガブ飲みでもしない限り、二日酔いなんて俺にはありえないはずだが。


「サイ、忘れるならせめて、アイさんの存在ごと全部忘れるってわけには……いかなかったのかな。好きな人の記憶を全部捨てるっていうのは、やっぱりできなかったってこと――」
「奴の頭の中のことは我が輩には分からん。それは人間である貴様の領分だろう」
「……ネウロ、最近はわりと話わかるようになったと思ってたけど、こういうことになるとやっぱり冷たいよね」
「温かくする必要がどこにある?」
「まあ……あんたにウェットな顔されても私が困るんだけどさ」


 俺は身動きした。
 床から体を引き剥がすように起き上がった。


「あ……」
「フム。どうやらお目覚めのようだぞ」


 あれ? なんでこんなとこにネウロがいるわけ?
 まあいいや。今は眠いし。また体調万全なときにでもじっくり殺してやる。
 首が痛む。どうやら寝違えたか何かしたらしい。
 肩に手を当ててこきこきと音を立てながら、ふと思った。


 ――アイはどこに行ったんだろう。